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2016年8月 2日 (火)

リオ五輪:夢舞台と暗い現実の狭間で!

 85日開幕のリオ五輪に出場する女子ボート競技米国代表のミーガン・カルモーが、自身のブログでメディアの報道姿勢を痛烈に批判しました。カルモーは、大会開幕を前にネガティブな情報(具体的には排泄物などが浮いているとされるボート競技会場の不衛生さ)ばかりが伝えられていると苛立ちを隠さず、「米国のためなら何が浮かんでいる会場であっても私はボートを漕ぐ」と宣言しました。その発言は様々な場でピックアップされています。

 

 リオ五輪開幕まで1週間を切った今、カルモーの苛立ちは充分に理解できます。大会に参加するアスリートのほとんどは無名の選手で、競泳のマイケル・フェルプスやケイティ・レデッキー、男子バスケットボールのケビン・デュラントといったスーパースターはほんの一握りに過ぎません。そんな中でカルモーのような選手が大会に向けて必死に準備を続ける中で、報道はリオの経済情勢や環境問題、さらにはテロに対する懸念といったことにフォーカスを当て続けています。2014年のソチ冬季五輪を含む最近の大会におけるメディアの傾向でもあるが、アスリートからすれば五輪は一世一代の晴れ舞台。例えて言うならば、結婚式の当日に空が雨雲で覆われているような気分でしょう。

 

 しかし、これが21世紀の五輪の姿であることも事実です。リオ五輪でも、過去の大会と同じように感動的なシーンや共感を呼ぶアスリートのストーリーがいくつも生まれるでしょう。その一方で、現実は夢舞台にもついて回ります。それにまつわる報道は読んでいて楽しいものではないかもしれません。しかし、それは重要な情報でもあるのです。

 

五輪のイメージと現実の違い

 

 我々は2年ごとにやってくる夏季五輪と冬季五輪を華やかなショーとして注目しますが、当然のことながら表に見える部分と実際の現場の状況には常に乖離した部分があります。

 

 五輪規模の大会を開催するとなると、政治や文化から人権、さらには環境問題への配慮といったさまざまな問題が複雑に絡みます。しかしメディアやテレビはその小さな一部を切り取る形でしか伝えることしかできません。過去には1972年のミュンヘン五輪でテロ攻撃があり、その約20年後のアトランタ五輪では公園での爆発事件が起きるなど、夢舞台においても悲劇的な出来事は起きてきていました。しかし報道する側としては五輪を人間ドラマとして描き、アスリート達の希望や挫折や栄光を見る側に届けることに力を注ぎ続けてきました。それがこれまでの流れです。

 

 このやり方は見る側を魅了し、熱狂させ、やがてスポーツ報道のあり方すらも変えました。テレビで目にする五輪はよりドラマティックなものになるよう色づけをされ、そして必要とあらば放送枠を移動させてでも視聴者に一番インパクトを与えられるように制作されます(1980年のレークプラシッド冬季五輪においては、米国対ソ連のアイスホッケーの試合が3時間遅れで録画放送された。氷上の奇跡とも言われたこの試合がそれでもなお3000万人の視聴者を釘付けにしたのは、驚異的だ)。

 

 こうした報道のあり方は、長年成功を収めてきたと言えるでしょう。

 

 しかしインターネットが発達した現代で、この「色づけバージョン」のみを観る側に届けるのは困難です。信頼あるメディアは情報を伝えるひとつの担い手ですが、今やスマホさえ持っていれば誰もが実況を行えます。デジタル化が進み情報の運び手が蔓延する中で、リアルタイムであるかどうかが重要になります。情報は瞬時に、そして生々しいままに世界に伝わるのです。そしてやがて伝えたい以上の情報が漏れ、放送における紳士協定は破られるのです。これはもはや五輪だけの問題ではなく、世界中で行われるどんなイベントについても言えることでもあります。

 

瞬時に全てが生で伝わる大会

 

 今回のリオ五輪の場合はニューヨークと時差が1時間しかないため、米国の視聴者は録画中継に頼る必要はない。間違えて競技結果を聞いてしまうのを防ぐため、オフィスで耳栓をしたり「五輪の結果を教えないで」と自分の周りに意思表示をする必要もなさそうだ。

 

 しかし少しでも現地から届く報道を耳にしているのなら、リオからのニュースが悲惨な状況を伝えるものばかりだということに気付くでしょう。経済や財政危機の話題もあれば、人手不足に関する懸念もあります。さらにはリオ市が非常事態宣言を発令したことも、暗雲立ち込める話題です。毎日のように何かしらのトラブルが報じられる中、一足先に現地入りしたアスリート達から聞こえてくる選手村の評判もあまりよくありません。

 

 たしかに中には物事を大げさに伝えるメディアや、不正確な情報も存在するでしょう。しかし、その多くは実話でもあります。

 

 21世紀になり、五輪の神話は崩れたと言っていいでしょう。そして今後もこういった報道は儀式のように毎回繰り返されるでしょう。大会の負の部分を誰もが知るようになり、五輪開催を望む国や都市も二の足を踏むようになります。昨年の夏には、2024年大会の誘致に立候補していたボストンが逃げるかのように立候補を撤回したのは記憶に新しいことです。

 

 夏季五輪ならばまだ一般に対するアピールはあります。しかし冬季五輪となると、新鮮味もなければ需要もありません。

 

 五輪を開催することが国威を示したり、あるいは商業的な成功が約束されていた日々は遠い記憶となってしまいました。500億ドルをかけて建設されながらもわずか2年でゴーストタウンと化したソチ冬季五輪関連の建築物。残ったのはそんなイメージです。

 

五輪自体への不信も

 

 五輪精神そのものに対する不信感も強いのです。大会を「純粋」なスポーツイベントとして捉えるのはもはや錯覚です。先日、国際オリンピック委員会(IOC)は国家ぐるみでのドーピングが明らかになったロシアに対して処分を下すことを拒否し、官僚的なやり方でその対処を各競技団体に一任するとしました。その他の問題(例えば冒頭で触れた深刻な水質汚染の件など)も無視されるか触れられることはほとんどなく、治安への懸念や人手不足に関しても同様の状況です。唯一真剣に語られるのは大会としてどう収入を増やせるか、ということだけのようにも見えます。

 

 もちろん、こういった事実がメーガン・カルモーのような選手個人の努力を汚すようなことがあってはいけません。五輪開幕前のメディアのあり方や、特に大げさな報道に関しては、カルモーが憤りを感じるのは理解できます。五輪も実際に競技が始まりさえすれば、それまでとは違ってネガティヴな情報は消えていくでしょう。そしてリオから感動や共感を得られるような素晴らしい名場面が毎日たくさん届けられることは間違いないでしょう。

 

 しかし、現代の五輪は夢や希望だけではなく、常に現実的な問題もついてまわり続けるでしょう。情報は増え、それに対する意見も増え、疑問も増え、五輪の舞台裏に関する報道も伝えられます。そして、例えそれらが醜いものであったとしても、それが事実であることに変わりはないのです。(ソースWSJ

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