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2010年6月 7日 (月)

今年は遣米使節団150周年

今年2010年は、1860年に我が国が初めて公式の遣米使節団を派遣してからちょうど150周年にあたりますが、この使節団の最終訪問地が6月16日のニューヨークであったことを皆様はご存知でしょうか。この交流は、米国史上、ジョン万次郎等遭難を経て辿り着いた者を除き、初めて一般のアメリカ国民が日本人と直接触れ合った機会であり、日本にとっても、約250年の鎖国が続いた後の初めての外国文化・文明との本格的な接触でした。

ここで歴史を振り返れば、1860年、幕府は、タウンゼント・ハリス初代駐日領事の勧めもあり、日米条約の批准書の交換のため正使新見豊前守正興、副使村垣淡路守範正、目付小栗豊後守忠順(後の小栗上野介)の3人を使節としてアメリカに派遣。この使節はアメリカ政府が提供した軍艦ポーハタン(日本来航時のペリー提督の旗艦)に乗船。さらに初めて日本人が操船する咸臨丸の護衛の下、37日かけて太平洋を横断しサンフランシスコに到着したのです。そこから一行はパナマ地峡を鉄道で横断した後キューバに到達し、再び船でワシントンに向かい、そこから最後の訪問地ニューヨークを訪れたのです。

咸臨丸はサンフランシスコまで護衛、遠洋実習のため随伴したわけですが、船長は幕末の立役者の一人勝海舟、そして福沢諭吉、ジョン万次郎など歴史に名を残す人物も乗船していたのです。ところがポーハタン号とほぼ同時に日本を出た咸臨丸(米軍人も乗船)ですが、からくも大しけを乗り切っての航海にもかかわらず、「サンフランシスコに2週間も先に到着したのです。それは「ポーハタン号に負けじと競争意識があったからだ」と言います。帰路は、6月20日、アメリカの軍艦ナイアガラでニューヨークを出港、大西洋を横断し、アフリカ喜望峰経由で帰国しました。これにより、幕府使節は地球を一周して日本に帰国したことになります。

遣米使節団は熱狂的な歓迎を受けたのですがその背景には、アメリカを初めて訪問する未知の日本人、神秘の日本への強い関心があったことですが、それにしても当時のアメリカ市民の反応は異常とも言えるものだったそうです。それは幕府ミッションがワシントンに到着した数日後、共和党がリンカーンを大統領候補に指名し、南部諸州に対し挑戦状を突きつけたときで、当時、南部分離独立が現実の問題としてあり、内戦が起こるかもしれないという恐怖がアメリカ全土を覆っていたからです。不安と恐怖を抱えたアメリカ市民が、神秘的で、黄褐色の肌をして、不思議な服を着た旅行者を熱狂的に歓迎することで、厳しい現実から一時的な逃避をしようとしたという側面があったのではと言う事です。そして1860年11月、リンカーンが大統領選挙に勝利すると南部諸州が独立を宣言し、翌年4月には内戦が始まりました。それとともに日本のこともすっかり忘れ去られてしまったのです。

アメリカ人から見た日本人は、正使新見豊前守はじめ使節代表は、常に物静かで威厳があり、驚きや賞賛といったものを言葉にも表情にも出さない、と当時のアメリカの新聞は報じていて、このような立ち振る舞いが、一行を覆っていた東洋の神秘というオーラを一層深めましたとあります。しかし表面的な見かけと逆に、一行は、副使の村垣淡路守から随行の下級武士に至るまで多くが日記をつけており、同行したアメリカ軍人は「日本人は常に日記を書き、短い文書、言葉など何でも写しとっていた、まさに蜂のように勉強をしていた」と書き記しているほどだったそうです。

反対に日本人から見たアメリカ人は、村垣副使は日記の中で、ワシントン滞在初日の出来事で、ウィラードホテルに到着したときの模様を、「まるで江戸の祭日のようだ、どうして全くの遠慮もなくあのように騒々しく振る舞うのか理解に苦しみ困惑した、更に(そのような様子に)時々こころから笑いが出てしまった」と記しています。また街をパレード中に一行の馬車の中をのぞき込んだり、一行の服に触ったりと、その行儀の悪さに驚いています。「静」と「動」、日米の文化の違いが最もよく出ているところではないでしょうか。また一行はアメリカで見た様々なものに驚かされ、そしてそれを楽しんだようですが、それら全てを無節操に賞賛することはなく、西洋の科学と技術の成果の一つ一つの最終的な価値を健全な懐疑心をもって判断しようとしていたことが彼らの日記から読みとれるそうです。

アメリカ人の本質を理解した日本人、使節はアメリカの民主的な政治制度や急速に発達しつつあった経済の制度についてはあまり強い関心を示したようには思われませんでした。米議会を訪れた際、江戸城内の荘重な評定と全く対照的に活発な審議振りに驚いた副使の村垣淡路守は、その様子を「日本橋の魚河岸のさまに似ている」と一行の間で語らったことを日記に記しています。また、アメリカの国政選挙について、随員の一人は、アメリカの大統領選出は、まず、政府の4、5名の有力者が候補を選び大統領選挙が行われること、黒人を除き良い性格の人物であれば誰でも大統領に選ばれる資格があること等を記しています。しかし、組織的にこの政治制度を掘り下げて理解し、吸収しようとはしていません。

しかし幸いだったのは、この政治制度の本質を鋭く理解する能力をもった人物が下級の随行者の中にいたことです。福沢諭吉、勝海舟などです。作家司馬遼太郎氏が著書「明治という国家」の中で、次のように書いています。勝海舟がアメリカから江戸に帰ったとき、老中の一人が勝に質問しました。「勝、わが日の本とかの国とは、いかなるあたりがちがう」と。勝は「左様、わが国とちがい、かの国は、重い職にある人は、そのぶんだけ賢こうございます」と大面当てを言って満座を鼻白ませたと。致命的欠陥をもつ封建制度の日本と若き民主主義の国アメリカの本質を端的に現している場面です。アメリカを訪れる前の一行の多くは、無知と偏見に基づいた西洋人観をもっていたようです。しかし、実際にアメリカを訪れ、多くのアメリカ人と直接に接し、いろいろな文物を自分の目で見てきた一行の多くは、その考えを改めました。随員の一人は次のように記しています。「一行のほとんど全員はこれまで西洋人を憎んでいた、しかし、今西洋人の態度を理解するに至り、そのような考えが変わった。あたかも西洋人が犬や馬のようであるとして彼らを卑しむことは失礼なことであり、大きな間違いである」と。

使節には小栗豊後守(のち上野介)がいました。激動の幕末、幕府が滅びるのを十分承知の上で、改革を断行し、非業の最期を遂げた幕府の俊秀でした。小栗は日本の将来への不安を抱き、近代化のための幕府大改革に取り組みましたが、このような熱い思いを抱かせたのは、若き小栗がアメリカで見た西洋文明の驚くべき技術、工業力だったのです。小栗は、パナマ地峡を鉄道で横断する時、鉄道建設費用の調達方法から株式会社の仕組みを理解し、ワシントン海軍造船所の姿に驚嘆し、アメリカから一本のネジを持ち帰りました。このネジが技術と近代工業のシンボルだったのです。小栗は後に幕府財政破綻の中、反対を押し切り、巨額の予算を要する横須賀造船所を建設しました。彼は「あのドックができあがった上は、たとえ幕府が亡んでも"土蔵付き売家"という名誉を残すでしょう。」と言い、これが次の時代に大いに役立つことを知っていました。これが若き小栗のアメリカ訪問が産んだ結晶の一つであると言われています。以上NY日本国領事館より

当時の写真はこちら
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150JapanNY/jp/photo.html
遣米使節団150周年

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